塩野七生、イタリア物 読み物紹介

<<事実は再現できなくとも、事実であってもおかしくない事は再現できる>>塩野七生

芸術作品をガイドブックどおりに確認していく旅行も楽しいものである。 しかし、その地の歴史を知ったつもりになり、街、芸術作品を自分なりに再構築し直して鑑賞するのも、格段と楽しいものである。

私のイタリア通いに油を注いでいたのは、塩野七生女史のイタリアを題材とした著作である。 彼女の著作の面白さは、活き活きとした登場人物である。 集めた歴史的事実を並べ、その空白部分を(学者にはできない)大胆さで創作し活き活きと物語を甦えさせる手法が許されるのは、結果が面白いからではなかろうか?  一連の物語りを楽しんだ後のイタリア鑑賞は地名、人物、出来事全てが自分の経験のような懐かしい思いで楽しめるのである。

若桑みどり女史のルネッサンス読み物と比べてみれば、その無責任さ故の面白さは格別である。 塩野女史の読み物は一気に読む事を強いられてしまう。 学者の著作は資料に過ぎないが、塩野女史の著作は歴史読み物である。

ただ、気になるのは、「ローマ人の物語」を始められ頃のインタビューを見ると、余りにも資料の山に埋没した生活故か、「変質狂的マニアに看られる兆候」と「老人性ボケの兆候」が、ホンの僅かながら見てとれたのが気になっている。  しかし、壮年期の著作は精気に満ち溢れている。 心配せず読まれたし。

物語中心のグループ、随筆風、資料中心、と3種類に分類して、物語グループからご紹介。 著作年代順ではない。

先ず、ルネッサンス3部作から
<緋色のヴェネツィア・聖マルコ殺人事件> 1987年週刊朝日連載、1993年朝日文芸文庫 [し10-1]

全くの創作である主人公2人以外は、殆ど史実である」と著者が書き記すとおり、登場人物、出来事、制度、しきたり、風習などの記述がリアルで、楽しみながら歴史の詳細が勉強できるのである。  正に現実の歴史の中に入り込んだかのように、ストーリーに惹きつけられる展開である。

創作された2人とは、<若きヴェネツィアの貴族><ローマから逃れた謎の遊女>で、地中海貿易をめぐり強国トルコと複雑な関係にある16世紀前半のヴェネツィアを舞台にして始まる。

「夜の紳士達=警察」、「聖マルコの鐘楼は、外国重要人物の牢獄」、等と事実の説明すらスリルの感じられる語り口である。
ドージェ(元首)が如何なるものかから、
「商船の石弓兵は上流階級の息子がなる」とか、
「未婚の娘は公式の場に出られない」
「同性愛者が広まるのを心配した政府が、娼婦や遊女には乳房をあらわにする事を奨励した」
「トルコのスルタンは、正式に結婚してはならない。妻が敵の捕虜になっては困るから」 等等
知的好奇心を満足させられながら話が展開していくのである。


<銀色のフィレンツェ・メディチ殺人事件> 1989年週刊朝日連載、1993年朝日文芸文庫 [し10-2]

   共和制が崩壊した後のメディチ家支配下のフィレンツェに、主人公が移って、物語が展開する。
ロレンツォ・イル・マニフィコ、サヴォナローラの思い出から、ダ・ヴィンチ、ラファエロも亡き、ミケランジェロも殆ど帰ってこないフィレンツェエの時代が舞台である。 

花の聖母教会、聖ミケーレ、聖ロレンツォ教会、と誰でも知っている場所で話が進み、
「両側に肉屋の並ぶポンテ・ヴェッキオ」
「聖ジョバンニ城砦は市民を守る為ではなく、内部の市民から守る為に造られている」
など意外な表現にも興味がそそられる。

「ラファエロの首飾り、ボッティチェリのプリマヴェーラの製作当時の思い出話」
「コシモがピッティ宮殿を私邸にした理由」 等等、ルネッサンス好きにはたまらない。

これらの話題に飾られて、誰が誰のスパイだと本筋が絡められていくのである。

美術の解説を読んだだけの人とは、格段に親しみの度合い、解釈の自由さが増してくる読後である。  単純な解釈に喜んでいる人たちが幼稚さ故に可愛く思えてくるのだ。


<黄金のローマ・法王庁殺人事件> 1990年月刊Asahi連載、1995年朝日文芸文庫 [し10-3]

ローマをダイナミックに飾ったベルニーニが生まれる前の、16世紀前半のローマに舞台は移る。
現在の観光客に、ベルニーニの前のローマを想像できるだろうか? サンピエトロ前の広場の壮大な列柱がない。
聖堂内の巨大な天蓋もない、ナボーナ広場に3つの噴水も無い、トリトーネの噴水も、サンタンジェロ橋の石像達もない。 勿論トレビの泉も無し(これはベルニーニ作ではないが)。

国際都市=単身赴任の多い外国人にちなんで、宮廷人の女性形である高級遊女と、肉体で仕事する娼婦の違いの説明から、ファルネーゼ宮殿が建設中、ミケランジェロが「最後の審判」を製作中の時代描写など等、タイムスリップさせられる快感が得られる。

歴史上の単なる1行の記述も、法王、皇帝、その取巻き、後継者、反勢力など複雑にカラミ、裏で工作、スパイ、脅し、手なづけ、懐柔、等などの単なる一時的な結果に過ぎない。 そのごく一部に関わった登場人物の動きが、この本でも活き活きと再現されている。

これで3部作は完了する。 以下は独立した別のお話である。

<コンスタンチノープル陥落> 1983年、1991年新潮文庫 [し12-3]

あの街を下さい』という若いスルタンのひと言で決まった1123年も続き、創立当初は西のローマより活気があった帝国の滅亡のお話である。
コンスタンチヌス11世の東ローマ帝国が、20過ぎのマホメッド2世率いるオスマントルコに破滅に追いやられる15世紀の地中海世界が、史実に基づいて痛快に再現されている。

ジェノバ、ヴェネツィアの海洋王国が地中海に築いた基地の状況
地中海貿易の実態とは如何なるものか、
本国の基地との連絡方法は、、、、等キリスト教国側の状況が具体的に語られ、
トルコ精鋭軍団イエニチェリ軍団や、強制的に徴用を余儀なくされた属国騎兵裏切る事を許さない巧みな軍団配置等などの記述にも緊張感ある現地報告のように語られる。

観光に訪れる水の都ヴェネツィアもその過去の繁栄と没落の歴史の知識をもって訪れれば、のんびりゴンドラに乗って済ませられるものではない。 


<レパントの海戦> 1987年、1991年新潮文庫 [し12-5]

ドン・キホーテのセルバンテスも参加したというペロポネソス半島の西のレパントでの海戦の物語。
16世紀後半、地中海が歴史の舞台であった最後の戦い、キリスト教国海軍とトルコ側海軍との海戦の物語である。  キリスト教国海軍といっても中心はヴェネツィアである事は変わらない。 ガレー船が主役を務めた最後の大海戦でもある。

「ヴェネツィア共和国海軍」
「ドーリア艦隊」
「ジェノヴァ共和国海軍」
「キリスト教艦隊」神聖同盟連合艦隊
「法王庁海軍」

これに対するトルコ側は、海賊を中心とした
「エジプト海軍」
「アルジェリア海軍」
「精鋭イエニチェリ軍団が乗る本隊」
 これら両軍合せて400隻のガレー船の戦いである。
それぞれの国の準備の状況、ガレー船の構造、乗組員の構成などの詳細な描写をしながら、大局の歴史の情勢判断をも忘れていない。


<ロードス島攻防記> 1985年新潮社

16世紀前半、小アジアの直ぐ南のロードス島、イスラム教世界に対するキリスト教の最前線での攻防記である。

主役は、聖ヨハネ騎士団貴族の血を引く者でなければならず、一生をキリスト教に捧げる修道士でもあった戦士達と、28才のスレイマン1世率いる近代化されたトルコ軍との壮絶な戦いの記録である。

名前だけはよく聞く<聖ヨハネ騎士団><マルタ騎士団>とは、
宗教であるキリスト教と闘う騎士団、異教と闘う最前線に実態、
何となく古代ロマンを連想させるロードス島の名前  など
単なる知識としての言葉に、生きた肉と血を付け加えられる。

バーチャルな世界に馴れ、使用する言葉から現実性を読み取れなくなりつつある現代の人間にとって、忘れられた小さな史実にも、壮絶な生きた現実があった事を教えられる。


<チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷> 1970年、1982年新潮文庫 [草181-2]

イタリアを統一し自らの王国を創ろうとして、残虐な戦いに明け暮れ31歳で死を迎えた若者の話。
法王アレッサンドロ6世の息子ルクレツィア・ボルジアの兄であるチェーザレ・ボルジア(1475-1507)

レオナルド・ダ・ヴィンチが、チェーザレの建築技術総監督を勤めた事、
(思考の天才と行動の天才との協力関係)
レオナルドは画家ではない。 彼の理想の国土計画実現の為、強大な権力者を求め歩いている
フィレンツェに期待出来ず、最強国ミラノで十数年、トルコの脅威におののくヴェネツィア、そして
チェーザレに国土計画実現の理想の君主を見出したのである。
絵も描いたというだけである、彼の作品点数の少なさと、長い活動年月を比べれば明らかになる。

フィレンツェから来た交渉担当として書記官マキャベリも登場する。

チェーザレが征服の為通過した街々の名前、ウルビーノ、リミニ、ボローニア、マントバ、フェッラーラ、、、等など
我々が旅行で訪れる街々の印象が、歴史という縦糸のカラミでより立体的な知識として蓄積されていく。
単なる美術品の残っている街ではないのだ。 お目当ての美術品を探して歩くだけでは、点を集めただけである。
線を知り、平面を知り、それに歴史という因果関係、必然性などを意識し得る事により、より自由な解釈・楽しみに発展していく


<神の代理人> 1975年中公文庫 [M5-2]

神の代理人すなわちローマ法王が中心のお話である。

『過度の禁欲は、しばしば狂信の温床となる。』  なぜならば、
『禁欲生活によって肉体はやせ衰えるが、想像力はかえって活発になるからである。』

『彼らは、その欲することをことごとく正義と信じ、その信じることをことごとく神の啓示として現実に見るようになる』
『そして、神から選ばれた自分こそがそれを実現せねばならないという使命感が、彼らの心を燃え立たせてくるのだ』

と出だしから快調である。

『善良な人々に、犯した罪の数々をあばきたて、彼らを地獄の恐怖に突き落とすのは、キリスト教会の最も得意とするやりかたである。』   『地獄への恐怖をかきたてながら、一方では天国へ行ける可能性をちらつかせるのも止めないのだから、ますます効果的というわけだ。』

ピオ2世≪最後の十字軍≫
アレッサンドロ6世≪サヴォナローラ≫
ジュリオ2世≪剣と十字架≫
レオーネ10世≪ローマ・16世紀初頭≫  の4編構成である。

読んだ後も、ヴァチカンを神聖な宗教の権化として見れるのだろうか?
勢力欲、金欲、打算、政略、、、<たてまえ>に隠す本音。 キリスト教だけではない、日本の仏教界もしかり、読んで大人の看方が出来るようになろう!


<ルネッサンスの女たち> 1973年中公文庫 [M5]


≪イザベッラ・デステ≫
 レオナルド・ダ・ヴィンチに描かれたフェラーラからマントバに嫁いだ女性

≪ルクレッツィア・ボルジア≫ 政略結婚に明け暮れたチェーザレ・ボルジアの妹

≪カテリーナ・スフォルツァ≫ チェーザレ・ボルジアと戦ったフォルリの女傑

≪カテリーナ・コルネール≫ ティツィアーノに描かれたヴェネツィア女性

以上の4編


<サロメの乳母の話> 1983年、1985年中公文庫 [M5-3]


≪貞女の言い分≫≪サロメの乳母の話≫≪ダンテの妻の歎き≫
≪聖フランチェスコの母≫≪ユダの母親≫≪カリグラ帝の馬≫
≪大王の奴隷の話≫≪師から見たブルータス≫
≪キリストの弟≫≪ネロ皇帝の双子の兄≫
≪饗宴・地獄編第1夜≫≪饗宴・地獄編第2夜≫
の12編構成の短編集


<愛の年代記> 1975年、1978年新潮文庫 [草181-A]


≪大公妃ビアンカ・カペッロの回想録≫≪ジュリア・デリ・アルビツィの話≫

≪エメラルド色の海≫≪パリシーナ公爵夫人≫≪ドン・ジュリオの悲劇≫

≪パンドルフォの冒険≫≪フィリッポ伯の復讐≫

≪ヴェネツィアの女≫≪女法王ジョバンナ≫

の9編構成の短編集


<マキャヴェリ語録> 1988年新潮社



マキアヴェッリの著作の抜粋である。

要約でもなく、解説でもなく、抜粋なのである。

塩野七生女史の他の作品の主人公とマキアヴェッリとの違いは、彼が著作を残したことである。


<イタリア遺聞> 1979年「波」に連載、1982年新潮社



ゴンドラの話、ぶどう酒の国、、、など30編の随筆集である。


<イタリアだより、君知るや南の国> 1974年文芸春秋連載、1975年文芸春秋



女にもてるイタリア共産党、世にも不思議な法王庁、、、など
11編の政治がらみの随筆が多い。


<男達へ> 1983年花椿連載、1989年文芸春秋

フツウの男をフツウでない男にする為の54章


女性向け専用の連載の為か、不用意な男性に関する思いつき集で、彼女の軽薄さが目立つ本である。

遊びのつもりであろうが、彼女の特徴である軽軽しい断定が、身近すぎて軽薄な形で現れた本である。

他の史実もこんなに軽薄に断定しているのだと思うと、彼女の全作品の信用がガタガタと崩れてしまう。


この本故に、私は彼女に対して「軽軽しい断定」とするのに迷いはなくなった

彼女の汚点である


<ローマ人への20の質問> 2000年文春新書


初頭で述べたとおり、<彼女の才能の陰り>が見えた後に読んだ為、私の懸念が現実味を帯びてきた内容であった。

私を夢中にさせたものが、ここには無かった。    人それぞれだから「面白い」と思う人がいるかもしれないが、、、

<ローマ人の物語>にも興味が湧かないのだ。


<海の都の物語 上・下、ヴェネツィア共和国の一千年> 1989年中公文庫


上巻520頁、下巻570頁でありながら、ヴェネツィア共和国の歴史を詳細に解説しているので、
読み切るのに相当な努力を要した本である。

読んだ端から忘れて行く程、詳細な事実が次から次へと書かれている。  資料集だと片付けた方が人生の為だ。
彼女の小説仕立ての著作方が遥かに面白く、ヴェネツィアの制度が記憶に残る。

でも、彼女の面白い著作は、この本があるから生まれたのかもしれない。


<ローマ人の物語> 1992年より全15巻の予定で執筆中

これだけの大作にしてしまうと、まとまりなくダラダラとした内容になってしまうので、読む気がしない。 文庫本になるまで、読まないであろう!


ご紹介した本は、過去に読んだもので、読んだ直後の感想では無い為、ご紹介に迫力が足りなかった。 最近は写真の多いルネッサンス関連本を見ていると言ったほうが適切かもしれない。

今後は、偉大な伝統の継承であるフィレンツェの職人の本などもご紹介してみたい! 美術品の修復など現在に生きている伝統技術を支えているのは、この表舞台に出る機会の少ない職人さん達である。  日本の陶磁器の職人さん初め、私は職人芸が好きだ! 自分が手に入れることが出来る。 自称芸術家になってしまうと、業者の仕掛けに騙されて一挙に高価に化けるから、、、!

それとも、服部真澄さんの紹介でもするか!


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