感動の共有、のぶながTOPページへTOPへ
写真豊富な のぶながワールド

≪ 「邪馬台国はなかった」 古田武彦 「壹」→「臺」 ≫

『 三国志・魏志倭人伝 』 には、「邪馬臺国」とは書かれていない。
書かれているのは、「邪馬壹国」である。
日本の学者は、「ヤマト」に導く為に、強引に
「壹」 は 「臺」 の間違いであると断定。
方向・距離の記載までも、勝手に間違いとしているが、

古田武彦氏は、
「 魏志倭人伝の記述は全て正しく、
記述どおり解釈して 」 結論を導いている。

2010-03 に、その著書に初めて接し、調査・研究の精緻さに深く刺激された。
個人的な備忘の為に、、断片的抜粋、解釈を記しておく。


  

2010-03 に読んだ本は、
『 「邪馬台国」はなかった 解読された倭人伝の謎 』
古田武彦 著 昭和46年11月15日発行  朝日新聞社

『 日本書紀を批判する 記紀成立の真相 』
古田武彦、澁谷雅男 共著 1994年10月1日 新泉社


古田武彦氏 略歴:
1926年生まれ
東北大学卒業
高校教師、昭和薬科大学教授



当方は、歴史マニヤでもなく、、単なる常識としての日本史、世界史に興味がある程度。
京都散策、海外旅行に関連して、、
歴史モノを読んだり、映画・ドキュメンタリーを見るのは、、日常的な習慣である。

しかし、、邪馬台国論争の出発点が、、
魏志倭人伝は不正確である、、として、方角、距離を、、様々に解釈している 点にあるのが
私が高校生の時代から、不思議に思っていた。
その後の様々な体験から、歴史学者なんて 妄想家、、阿保ばかりと 想定していたので
古田氏の方法論、、調査の広さ・緻密さ、結論の導き方に触れ、、刺激を受けた次第である。
また、、大和で何か発掘されれば、、直ぐに卑弥呼に関連付ける単純馬鹿さに抵抗を感じていたので
邪馬台国・卑弥呼=大和朝廷、現天皇系 を 異 とする古田説に 大いに興味が湧く。

今後とも深く追求する気は無いので、読んだものも直ぐに忘れてしまいそうなので、
断片的に印象に残った部分だけでも、メモっておくだけなのである。
歴史的真実が如何なるものか、、解釈が違う、、なんて事には、、無責任なのである。



古田説が間違いとする大勢説の文字色を ピンク色で表示。


■■  「壹」 → 「臺」
『 三国志・魏志倭人伝 』 には、「邪馬臺国」 とは書かれていない。  書かれているのは、「邪馬壹国」 である。
日本の学者は、「ヤマト(近畿・大和、筑後・山門)」 に導く為に、強引に  「壹」 は 「臺」 の間違いであると断定。
台 ← 臺 なので 「 やまたいこく 」 となるのだが、、元々は 「 邪馬壹国 」 なのだから 「 やまいこく 」 となるのである。
  c.f.  「壹」 は 「豆」 を含むので 「と」 と読んでいた可能性もある。 という説もある。

『 三国志・魏志倭人伝 』 が出発点ではなく、
現天皇系の経歴詐称の為に 「 ヤマト 」 に結び付けたいという目的の為に、、 
「壹」 は不都合 「臺=台」 と原文を直さねばならなくなった。




   ↑ 『 三国志・魏志倭人伝 』 紹熙写本 ↑






← 邪馬壹国の部分




■■  魏志倭人伝が、 「臺=台」 と書き間違えたのではなく、 当然の事ながら 元々 「壹=壱」 である事の証明
古田武彦(敬称略)は、、出発点の 「魏志倭人伝」 から検証する。

『 三国志・魏志倭人伝 』陳寿 の写本には、 「 紹熙本 しょうきほん 」 と 「 紹興本 しょうこうほん 」 がある。
「 紹熙本 しょうきほん 」 1190〜1194
「 紹興本 しょうこうほん 」 1131〜1162
著作者・陳寿の自筆オリジナル本 3世紀末の 『 三国志・魏志倭人伝 』 が見つかれば明らかなのだが、、
後の時代の写本しか無い以上、、写本から出発しなければならない。

これらのいずれが正しいかを検証し、、当時の字体で 「壹」 と 「臺」 とが間違われる程に類似するか? の検証の為に
当時の、、石碑や金属製に刻まれた  「壹」 「臺」 の字体を多数収集している。
『 「邪馬台国」はなかった 解読された倭人伝の謎 』 には、刻まれた字体の現物写真を多数掲載している。

    ↓ 当時の字体検証の現物写真の一部 ↓



(私はこの時点で、、ここまで原点を追求している研究態度に 敬意を表し始めた。)

三国志の中で使われている 「壹」 「臺」 の字数を数え、分類し分析、、、書き間違いの可能性を推測、、


  ↓ 使用された字 の分類表 の一例 ↓




■■  歴史上初めて 「邪馬臺国」 ・台 と記録されたのは、 范曄(はんよう)著の 『 後漢書 』
著作者の范曄は 398年生 〜 445年没
陳寿の 『 三国志・魏志倭人伝 』 は 3世紀末の著作 で 三国志の方が 1.5世紀も古い。

陳寿の 『 三国志・魏志倭人伝 』 は、”魏”の後継としての”晋”の史官として、直前の時代を書いているのに対し、
范曄の 『 後漢書 』 は、時代の隔絶した5世紀半ばに書いている。  信憑性のあるのは 『 三国志 』 である。
范曄自体が 『 三国志 』 を参照しながら 『 後漢書 』 に盗用したのである。 両書が違うなら 『 三国志 』 が正しい。

『 後漢書 』 以後の、『 梁書 』 『 北史 』 『 隋書 』 の記述は 『 後漢書 』 に従っているので独自の史料価値は無い。



■■  「臺=台」 は、天子の居住する宮殿・中央政庁を意味する 高貴な字である。
邪馬*国、卑弥呼 と字体が充てられるのを見れば、、、大国の中国から蛮族を蔑視する形式は明らかである。
邪(ジャ) 馬(人間以下の動物) 卑(いやしい) と 軽蔑的な卑字の中に、、高貴な 「 臺=台 」 に書き間違うはずが無い。
書かれたとおりの 「 壹=壱 」 である。




存在していたのは邪馬壱国であり、  邪馬台国はなかった と言う本の 書名 となっている。
ヤマタイ から ヤマト への流れに 困難が生じる事になる。



■■ 「 共同改定 」 と 「 各個改定 」
”倭人伝には まちがいが多い” とする邪馬台国学者が、 原文の誤り とし、
自分の説に都合の良いように 「改定」 している箇所に、共通している箇所と
学者毎に個別に改定している箇所がある。

「 共同改定 」 の主な所は、 「壹」 → 「臺」 以外に

★ 地名記事で、、『 会稽東治之東 』 → 『 会稽東冶之東 』  治 → 冶
「 会稽の東を冶める その東 」 VS  「 会稽-東冶 の その東 」
九州 VS 沖縄  との違いが出てくる。
、、、、この解説だけで 23頁も費やしているが、、、、、(略す)


★ 貢献年代で  『 景初2年 』 → 『 景初3年 』
僅か1年の差なのであるが、、、卑弥呼の第一回遣使が歴史上の真実かどうかに関連してくる。
また 景初三年の銘がある発掘された銅鏡が、魏から卑弥呼に与えられた銅鏡百枚かの真偽に関わる。
、、、、この解説だけで 14頁も費やしているが、、、、、(略す)


★ 国名記事で  『 対海国、一大国 』 → 『 対馬国、一支国 』
現存する地名 ツシマ イキ壱岐 に特定しているが、、大陸側からの地名は別である、、、
現代の状況に合わせる為に、原本を間違いとするのは非学問的である。、、、、、(略す)



 「 各個改定 」 は 各ルート説に代表される。
南 を 東に、、、陸行一月 を 陸行一日  に、、、と多数。

これらの問題は、、素人目からしてメチャクチャである。  が、、ご丁寧にも個別に検証されている。
、、、( 要約するだけの気力も情熱も義理もないので、、略す )

  ↓  当時の日本が描かれた地図 ↓

↑ 日本列島は、、九州が北で本州は南に延びている。 ↑
東西南北の方向感が、、現代の常識とは違っている可能性の証拠



■■ 『 「邪馬台国」はなかった 解読された倭人伝の謎 』 では、、これらの章の後
詳細緻密に、邪馬壱国の所在を検証しているが、、、、要約すれば緻密さが無くなりそうなので、
必要であれば、、現物を読み直すしかない。  個人的メモ書きはこれまでである。

古田武彦説を検証する能力も興味も無いが、、
その方法論と緻密な実践に、強烈に刺激を受け、敬意を表するのが、、目的なので
詳細を、、転記、要約、抜粋、、すらしていないが、、
このHP作成で、、次の興味への足がかりとなる事が期待出来そうである。
                                     2010-04-03 記



■■ 古田武彦の結論
女王卑弥呼の統治する 邪馬壱国 は、、、九州 博多湾を前にした平野部とその周辺丘陵部。





■■ 「倭伝」 でなく 何故 「倭人伝」
三国志では、、高句麗伝、韓伝 という国名表記になっている。
ただ一つ 「倭人伝」だけが、「倭伝」 でなく 「倭人伝」 なのか?
倭国 は 倭人の国々の一部の国 と認識されていたから、、

女王国が近畿大和なら、、九州まで含む広大な領域の国となり、、「倭伝」とするだろう。
倭人の国々の西の一部の国だから、、「倭人伝」 とした。



先人の説の記された教科書的なモノを学習するだけで良しとするレベルの専門家が多い中、
研究の最先端で、無尽の事象の中から微かな真実の光を見出す努力・その方法の一部に接し
頼もしいというか、嬉しいというか、、とにかくHappy なのである。

百名山という他人が決めた山を、何の疑問も抱かず、自らの目標とする人、、、VS
自らの感性と予測で、多くの山を登り、自らの山登り感を 創出する人。
世界遺産という無秩序なブランドに左右される人 VS 筋の通った価値基準で行動する人。
無尽蔵の対象から自らの価値観を育てていくのは才覚が要るが、、安易にガイドに従うのは楽であろう。
古田武彦氏の独自性のある研究態度は、、このような研究者は、、大切にしたいと思う。




感動の共有、のぶながTOPページへTOPへ